「未央は昔、ぼくに言ったんだ。ぼくにとってのブエノス・アイレスはどこなのかってね。ぼくはその時うまく答えることができなかったけれど、今なら答えられるよ」と、ぼくは目の前で、相変わらずコンビニで買った卵サンドをほお張っている薫に言ったのだった。
「つまり、ぼくにとって未央と一緒にいることが全てなんだ。場所なんてどこだっていいんだよ。日本だろうが、高度三千メートルを越えているアンデス山脈の小さな町だろうが、失われたアトランティス大陸だろうが。
「重要なのは、ぼくと彼女が同じ空間にいるってことなんだよ。それが全てなんだよ」
薫は牛乳を飲み干し、ぼくの目をじっと見て「じゃあ、哲朗は未央を探しにいくの? これから。どこにいるかわからない彼女を探しに」と、訊いた。
「行かない。行かないよ。ぼくはここにいる。ここで未央を待つよ。だって彼女が帰ってくることは、ぼくは判っているから」
二年前、何の前触れもなく、未央はぼくらの視界から姿を消した。彼女のバイト先を訪ねたとき、バイト仲間の一人が「今、いかなくっちゃ」とだけ彼女が言っていたという事実を、教えてくれたのだった。
そして今、何の予告もなく、ぼくの視界に再び彼女は姿を現したのだ。絵はがきという形で。
未央から届いた絵はがきの消印は、驚くべきことにアルゼンチンのブエノスアイレスからだった。裏にはタンゴを踊っている男女のイラストが描かれ、表にはぼくのバイト先の住所と、大きく“JAPON”とだけ書かれていた。
それ以外は何も書かれていない。
懐かしい、見慣れたちょっと右上がりの角張った筆跡。ぼくは、未央が書いたぼくの名前と住所を、身体の隙間を埋めるように何度も何度も目で読んだ。そして、その絵はがきについている彼女の香りを、一つ残らず吸い取ってしまおうとしたのだった。
一体全体、何があったのだろう、二年前の未央に。どうして彼女は、ぼくらの目の前から姿を消したのだろう。そして彼女はご丁寧にもアルゼンチンのブエノスアイレスに行き、ぼくに絵はがきを送ってくれた。二年という歳月を経て。
「今行かなくっちゃ」と未央に言わしめた、そこまで彼女を追いつめたものは、一体何なんだろう?
薫はタバコをゆっくりと、時間をかけて吸った。まるで人生最後の一本のように、惜しむように。
「呆れてるんだろ? どうしてぼくがそう思えるのかって。何を根拠にそう思うのかって」
「ううん、違うよーーー」と微笑み、そして目を細めながら「哲朗の恋はさ、多分あたしの、つまり、田島との恋よりマシなんじゃないかな。よくわからないけれど」とタバコを消しながら言ったのだった。「何でと言われてもね……。だって哲朗、未央が自分の元に返ってくるって、そう確信しているんでしょ。紛れもない事実として」
ぼくは黙ってうなずいた。
そうなんだ。困ったことにぼくにもうまく説明はできない。なんでそう思うのかって。だけどそれは紛れもない事実として、揺るぎない事実として目に見えない形で現されていることなんだ。それはもう、始めから決まっていることとして、世の中に存在している事実なんだ。
「そうね、野球のスコアで言ったら7回の表がようやく終わりを告げたって感じかな」薫はサンドウィッチを包んでいたラッピングをくしゃくしゃにし、いい加減なピッチングフォームでそれをゴミ箱に放り投げた。
「つまりはあと3イニングはあるってことだよね?」
「そう」薫は当たり前でしょって顔をしながら、うまくかごに入らなかったゴミを拾いながら言った。
「じゃあ、これから大リーグの野球場で、地元チームを応援してくれる『テイク・ミー・アウト・ボールゲーム』が流れるんだ」と言ったら薫はにっこり笑って「そういうことよ」と、言った。
それから薫は新しいタバコに火を付けて「あたしが好きだった田島は、あたしのことなんて全然好きじゃなかったのよ。哲朗だって判っていたでしょ、気づいていたでしょ。
「彼は自分のことだけで精一杯だったの。同性愛者と気づいてしまって、自分はこれからどうやって生きていくかって、それだけを考え、探し始め、行動したのよ」そして自分を納得させるかのように、ゆっくりと言った、口をきゅっと結んで。
「幸せだったと思う。うん。その時はね」
遠くでセミの声が聞こえる。夏の力強い太陽が緑覆い茂った木々を照らし出し、道路を焼け尽くす。日傘をさした老婦人が入り口を横切った。向かいのアパートの扉の前の木陰で、ぐったりとした黒い犬が横たわっていた。ぼくはその風景を、何も考えずじっと眺めていた。
大丈夫。未央は帰ってくる。近くもない、そして遠くもない未来に。それだけはゆるぎのない事実としてわかる。そして未央と再会したら全てが解決されるだろう、何もかもが。そうさ、だって世の中なんて単純にできているんだから。何も難しく考えることなんて、無いんだ。全てはもう、すでに描かれているんだから。
これからぼくが考えていかなきゃいけないことは、未央に向けてどんなボールを投げてゆくかってことだけだ。でもきっと未央はぼくがこんな風に考えているなんて、水族館で一定方向をぐるぐる回っているマグロと同じように、何も気づいていないのかもしれない。いや、本当は初めから気づいていたのかもしれない。
記念すべき第一球目はどこに投げようか。そしてこれからやってくる3イニングは果たして長いのか短いのか。
でもぼくは投げきるだろう。そうさ、ぼくらのブエノスアイレスのために。
「哲朗、アグレッシヴにね。未央、かたくなで頑固だからね、知っていると思うけれど。がんばってね、哲朗。応援してるから」
そして終盤の始まりを告げるオルガンのメロディーが、ぼくの頭の中で流れ始めた。